昭和四十九年二月十九日 朝  

X御理解 第二十節

 此方天地金乃神よりおかげを受けていることを話しにして聞かすのぞ、疑うて聞かぬ者は是非に及ばず可愛い者ぢゃ、又時を待って、おかげを受けるがよし、めいめいに子を持って合点せよ親の言うことを聞かぬ子が一番つまらん言う事を聞かぬ子は親も仕方があるまいが。

 今日のこの二十節を聞いて頂く前に、昨夜の月次祭の後に頂いた教話をもう一ぺん内容を頂いて見たいと思ひます。是非時間の許す方は、昨日の教話テープに取ってあるでしょうからもう一ぺん頂き直して頂くともっとよくわかります。
 今日はこの二十節は、の内容と昨日は非常に具体的に御教えを頂いたと思います。言うことを聞かぬ子は是非に及ばず、可愛いい者じゃ、又時を待っておかげを受けるがよしと、と言うこれは切なる、親心だと思うんです。
 言うても言うことを聞かない、だから知らないぞと、言うのではなくて、時節を待っておかげを受けたがよいと、言うならば後ろから、後ろ祈念をしておって下ださる様な感じでしたネ。もう縁の無いものは度し難いものだ、と言う様なものでなくて言う事を聞かぬ者でも時を待ってまたおかげを受ける、その時期を待っておかげを受けて呉れよと言う神様の願いと言うものが感じられます。
 それを昨日の教話で、のところから頂きますと、例へば 主人が一人信心しておる、家内もついてもこん、子供もついて来ん、と致しましょう、それで本当に ここに家内が信心して呉れたら、子供達もついて来て呉れたらと思います。
 それでネ、信心をさせて頂いておれば、いつかは、家内も、これは家内 子供だけの事ではないですよ、それは嫁と言う場合であってよし、姑であってもよし、隣り近所に難儀を、している人もおります。本当に金光様の信心を頂きなさりゃあの人達も、助かりなさらうにと思う人達の上に於ても同じなのです。
 言うても話しても聞かない、聞こうとしない、だから もう云うたっちゃあの人達は聞かっしゃれんから、と云うて捨てるのでなく 投げて、しまうと云うのではなく、時期を待っておかげを受けたり 受けることを 祈り願うと云うこと。
 昨日の教話の中には、そこのところを本当に有り難い、自分がおかげを頂いておる本当にこの有り難いおかげを一家中が信心したらどんなに家も円満に行くことであろうか、と云うことは段々大きくなって行くのです。
 日本国中でもよい世界中でもよい、この信心を世界中の氏子が頂かれる様になったら、どんなに平和な世界、住みよい世界が出来てくるだろうか、それを思へば、世界真の平和も祈らなければ居れない。又は和賀心時代を創るとここで云はれておる、そう云う一つの信心運動に参加して貰うて、世界真の平和を和賀心を目指して、求めて行く人達の同志を導いて行くと云う様なです、小は自分の家族の中からでもよし、大きく祈れる力が出来たら、世界中のことになっても良いわけなのです。
 けれども ただそれを祈っておるだけでは出来ない、力なしに祈っても出来ない。その力と云うものはです、例へば強引にoo教ぢやないですけれどもです、それこそ他所の宗派 宗教はもうそれこそ間違いだ 邪宗だ、と悪口の限りをつくしても強引に自分の教団と云うか、集団に入れ様とする様な、ところもあるけれども金光様のご信心はそれではいけないと云うことですネ。
 云うことを聞かなければかえって反対の結果にしかならない。それはね、云う事を聞けば良いです、強引にでも お導きをして、それが本当の信心になって行きゃいいです、又云うて聞かせて あぁそうかなぁとついてくればよいですけども。
 普段 一応は 云うに致しましてもそれでは尚且つ、云うことを聞かない、信心をしないならばです、祈らなければならない 願はなければならない、その祈る心と云うものがです 自分がこうやって またいつか時節を待って おかげを受けたらよかろうと云うその内容が、この人達は云うて聞かせてもわからん、いくら云うたっちゃ聞かぬ、そう云う心で、祈っておっても、願っておっても、おかげにはならんと云うことです。
 まあ私は 昨日は合楽の信者さんの、三つに分けた。非常にその自分の頂いておられる有り難い信心を誰にでも彼にでも伝へなければおかん、云ぅはにゃ居られない程しに自分が有り難い、けれどもそれを云うことを聞かないならばと云う、云うならば情熱型。
 そすと 自分が信心を頂いて有り難いことが判って段々 おるからです、神様にお願いして行きよりゃいつか、おかげになるだろうと、と云うよぅな様な、まあ冷静な型。
 また合楽にご縁を頂いている、金光様の御信心を頂いておるけれどもです、それを子供に伝へ様とも思はない、人に伝える様とも聞かせ様とも思はない、と云う程しに有り難く思っていない、と云う、この三つの部類があるのだが、お互い皆さんどの部類に入っとるだろうか、この三つの どれかに入っとる、けれどもこれではいけないと言うことでした、昨日は。
 昨日私は午後から此処に座っとるときに頂いた御教えへですけれども、合楽教会が今日この様にして段々ひらけて来た、これは誰のおかげ 彼のおかげと言う事はない、中心である大坪、いわゆる 私の持っておる傘一本で開けた道、ぢやと。
 その誰れ彼れと言う中にはです、私どもに大変、親切にして下さった方がある。又は、それとは反対に、大変冷い人もある。様々な人が、言うならば使はれて、今日の合楽が開けておる。けれどもそう言う人達もです、結局は大坪総一郎の持つ 信心から生まれる。安心、言うなら傘一本でそう云う人達も使はれたんであって、誰れ彼れのおかげぢゃない、此処の合楽教会が開けたのは、大坪が持つ傘一本で開けた道ぢゃと教えて下さつた。
 そこで めいめいがです、信心をさして頂いて、ならこれを人に伝へておかねばおられん様な、云うなら 切実心、又そう云うそのわからない人達にでも、強引にでも、叩いてでもわからせたいと云う様な衝動にかられる様な事もある。
 それは内容がどんなに この人が助かるために願うても思うてもです、その人が助かる道を歩こうとしなかったら、導かれ様としなかったら仕方がないこと。
 そこでお互いがです、それは それを人に伝えなければ居られない程しの心、それを神様を有り難いと思うておる心、合楽に御神縁を頂いてと云うことが有り難いと思うておる心、金光様の信心さえしとりゃ大丈夫と思う心、そう云う心とです。 まぁ私は、これは 安心のおかげを頂くと云うてもピンからキリまでですけれども、まぁ云うなら、小安心から中安心から、大安心、と云う風にありましょう。皆さんも何とはなしに、毎日こうやってお日参りさせて頂いて日々のことをお取り次ぎ頂いて行かれると 今日一日のことが、安らいだ心で一日を送らせて頂くことが出る事と思う。まあ云うなら安心です、まあ安心と云うか安全感かもしれません。 その安全感が安心ともなり、それがもう絶対のものになって来るときに、所謂 絶対信という安心が生まれて来るわけです。
 ですから、うちの家内が一つもいうことを聞かんとか、うちの子供が信心をしないとか、それでも親ですから、やっぱり主人ですから、家内が信心してくれることを願う 願っておる、それでお前どんが信心せんからとおこる様なこともある。どうでんこうでん一ぺん参って見れと強引にいうこともある。いうことを聞かんとやっぱり祈る。その祈る心がです、どうしてこの人達は言うことを聞かんぢゃか、わからんぢゃろうか、というた様な心で祈っても、駄目だということなのである。
 これは皆さん、沢山の人が心に思いあたることがあるだろうと思います、子供なら子供に信心をさせたい。目に余る様なことをする、そんな事もなかろうけれどもと思う。だから信心を話して聞かせる、導かうとも思うけれども、ちっともいうことを聞かん、けどやっぱり神様がもう本当に子供が信心します様にと、そういう心で、神様を拝んだって駄目だということを、傘一本で開けた道であるから、その傘一本の心、信心のよろこび、信心の安らぎ、安心、有り難いという心で、祈って行く事になって 又は話して上げるという心にもなる。
 そこから 傘一本が、例へば合楽の教会が、私の持つ傘一本で頂いたと神さまが言うて下さる様にです。皆さんの家庭に於ても、あなた方が頂いておる信心、所謂傘一本で開ける、此方が天地金乃神よりおかげを受けたことを、例へばここに、高芝さんが居ります、高芝さんが合楽教会で毎日おかげを頂いて、いた事をというてもよい。此方が天地金乃神より受けた、頂いたことを教祖様が話して下さってもです、それを聞こうともしない。高芝秀雄さんが毎朝お参りさせて頂いて、そして定期まで用意して、録音もして帰って、聴かそうと思うて、只、聞くとは聞きよるけれども、さぁいっちょ明日から本気で、例へば、云はないならばです、仕方がないだろう。
 だからここんところは、天地金乃神がおかげを受けたということを親先生から頂いてきたことを、例へばいうて聞かせても、それを疑うて聞かぬ、疑いはせんでもそれをじょうぞと聞かん。昨日私がお夢を頂いたことのように、鼻でせせら笑った様な、聞かんとするならばもうこれは是非に及ばない事であるけれどもです。それこそ可愛いものぢゃという神心を使うて、時を待っておかげを受けたがよいと云う祈りをしなければいけん。
 こん奴どもは云うことを聞かんと云う様な心で祈ってはいかんと云う訳です。可愛いものぢゃという可愛いと思う心が神心ぢゃとおっしゃる。神心を以て祈れと。自分は信心頂いてきて、話を有り難いと思うておる。心に安らぎも、安心も感じ、その心で、祈って行かねばならない。
 時を待ってまたおかげを受けるがよかろうと、子供を持って合点せよと、親の云うことを聞かぬ子が一番つまらんと。一番つまらんけれども、聞かんなら仕方がない。だからどうして云うこと聞かぬかと、云った様な怒る様な叱る、又は叩いてでもと云う様な事ではいけない。とにかく一本の、大坪総一郎が頂いておる傘一本で開けたのが、合楽の信心だということを、皆さんの上に、総代高芝秀雄が持つ一本の傘で高芝一家が助かる様になった。高芝さんに縁のある人達が助かる様になったと、云う様なおかげを受けなければ、ね。その傘一本でひらかにゃいけん。だから傘一本を求めての信心にならなければいけない。
 傘というのは信心に、所謂喜び、喜びのときに、不安がない、喜びのところには心配がない、焦燥がない、言うなら小安心である。
 その不安の心で、その安心の心を頂いてるもんだから、こういう安心の心を家族中のものが頂いたらさぞよかろうと思うから、強引に云うても、怒って教えても駄目だと云うて、そう云う心も持たずに時節を待っておかげを受けたがよかろうと、受けるがよいと云うことはです。ただ自分の心の中にです、あれどもが信心すればよいけれどもと、いう願いの中にです、自分の心のよろこびが安心に高められていないで、それを思とったら、一生思とるだけで誰もついても来ません。
 昨日はそういうところを非常に具体的に頂いた様です。昨日の御理解。だからそういう御教えをです、私は今日はあの御祈念をさして頂いとったら、私の枕元に電気スタンドが置いてあります。これはけや木の木で出来た民芸調のなかなか素晴らしい電気スタンドです上はネ。和紙で折って造った厚い和紙を厚くして、それをこう折って、だから柔らかい感じ、光りになる訳ですね。紙ですから、傘です、その電気スタンドを頂いて、誰かが電気のその傘をですね、パーッともう凄ましい勢いでパーッと取ったんです。ハッと思ったら、それが二重になっとって、また下があったと云うお知らせでした。
 私は傘と云うことは、傘一本の傘と頂かんならんだろうと思う、ネ。紙、紙で造った神、いわゆる信心。例へばね、私の方の信心をふり返って見ますとね、様々なことがありました。もう本当にもうウロウロする様なこともありました。もう安心を取り落した様な、かと思はれる様なこともありました。云うならその傘がパーツと取れた様な、こともあるけれどもです、その下にはまた傘があった、と云うことです。
 それはどう云うことかと、私はそこんところを、が大事だと思います。私ども日常生活さして頂いとると様々なことがあります。カーッと腹を立たたねばならん様なときがあります。又突発的なその事故の様なことが起こってです、本当にウロチョロする様なときがあります。けどもどう云う事になっても、どう云うことに遭ってもです、それも神様のおかげだと信ずる心だと思います。
 だから人間ですから、パツとする頂いてる安心を取り上げられた様なことがありましょう。あるどころぢゃありません。けども、もう取ったその後にはです、例へばそれがどんな難儀な問題であろうが悲しい問題であろうがです、これも神様のおかげの元にしかならんのだと、おかげだと------。
 一昨日でしたか熊谷さんの娘さんがお医者さんの奥さんになって、子供さんがいくらでも居られます。大学に行っとられますお孫さんが、丁度何かしらしきりにあちらの方に行きたい。行ったところが丁度 自動車で出かけようとしよるところ、まあ恐らく、おばあちゃんに心配させるから、云わん知らせん、ということであったろうけれども。丁度行き合せられたから聞いたところが、そのお孫さんが歯を抜きに行ったところが血が止まらない。もう何日間も一進一退と云う程しの重体である。あれは歯を抜いて血が止まらないと死んでしまいますよね、やっぱり。
 そげな大事なことを本当に自分に相談して呉れたら良いと思うのですけど、信心がないのですから。そんなら私も乗せて行って呉れんのと云うて、此処の前まで、自動車で又見えられた。そして息子さん達は病院に行かれた。
 今日はその輸血があるからと云うのでそのことのお届けをされたところがです。私一寸その時の言葉を忘れましたけれども、熊谷さんは一昨日お届けしとられましたから、覚えとられますから後で聞いてみねばいけません。
 熊谷さん一切がおかげですという事であった。もう死ぬか生きるかわからん様なこと。けども一切がおかげです、と云う事のもう、それこそ鶴の一声。本当にひょつとするとこれによって子供達やら孫達が、これに依って信心になるかも知れん、ひょっとするとこのまま死んで行くかも知れん。けれどもそれがおかげだというのです。
 丁度熊谷さんの、傘をパッと取られた様な思いではなかったろうかと。なら浮羽郡からここまで来られる間は、心配であったろうけれども。ここで御理解を頂いた途端です。下にまだ安心があった、これでおかげを頂くに違いないという思うことも、にも思はれるかも知れん。ひょつとしたらそれで死ぬかもわからん、けどもそれをおかげだということを頂いたときにです、もう本当に、御教えの素晴らしい事に恐れ入ってしまう。有り難とうてたまらんということに変って行くということなんです。
 如何に熊谷さんが、この、神様の一分一厘間違いのない働きを体験しておられるかということがわかります。けども一寸の間は、やはり取られた瞬間不安であった。けれども次の瞬間には、右になろうが左になろうがおかげだと頂いたときに、御礼申し上げるより外にない、ということになって来た。
 今日私がお知らせを頂いたのはそういう事だと思うです。だから傘一本で開ける道なのです。これなら家庭中の者が信心になって行くという道。または商売不振なら商売不振が段々繁盛の道を辿らせて頂く道。人間関係がおかげで円満の道がひらけて来るという道。様々な風に頂かして貰はなければいけないでしょうけれどもです。問題はこう云う不景気なことでどうするか、こう云う一家不和なことでどうするか。例へばあらゆる難儀という難儀という中に例へばあってです、どうして信心するのにこうした事になるじゃろうか、という様な思い。
 それが人間である場合は、いくら信心は云うて聞かせてもわからん。どうしてわからんじゃろうか、と云う心で祈り願っても駄目だと。
 熊谷さんが次の瞬間、ここで頂かれとる様に、本当におかげだという心で、祈らねばいかん。一切がおかげであると云う、その心で祈らせて貰う。
 昨日の教話の内容を、寝みながらいろいろ考へさせて頂いて、本当にすばらしい御教えであったなぁと、思はせて頂いておったからでしょうか、又昨日に続く様な感じですね。
 夕べのその御理解、今日はこの二十節を頂いた。なるほどこの二十節の内容は只すーっと読んだだけですと云うたい。例へば昨日頂いたあの深さ、広さ、と云うものが、この内容にあるというて。そして今日また改めて、私の心の中にある傘というところもです。何か突発的に起こって来るときには、その傘はどこへやらと云うこともあるけれども、次の瞬間にはもうひ一つ次の傘があった。その傘というのは、神様の御働きの中に、難儀とか困ったとかと云うことがある筈はない。それは生きるも死ぬるもです、という程しのことがその中にはあるのです。
 それがおかげの元になる。そう信じれる心が傘一本であります。その一本の傘をもってです、家庭の中に信心がひらけ、自分の周辺に、世界に、真の平和と云うことを祈り願はせて頂く。所謂、和賀心時代を創ると云う様な信心が展開されて来るその大本と云うのは、銘々が持っておるところの信心のよろこび、所謂、一本の傘を持って開いて行かねばならないと云うことですね。どうぞ。